聖シメオン教会

ホテル出発は8時。添乗員の説明では今日のスケジュールもタイトでダマスカスのホテルに入るのは8時近くになるとのこと、厳しい。
1時間ほどでカラート・サマーンにある聖シメオン教会に着く。

さて、聖シメオン、ガイドさんによると、
AD391年、シリア北部のシサン村で羊飼の家に生まれる。幼い頃に両親に連れて行かれた教会で‘イエスの山上の説教’に感銘を受け、禁欲的な生活による精神の純化に憧れ、13才になると修道院に入る。

繰り返し断食に入ったり、荒縄で体を縛ったり、難行苦行を求めて幾つかの修道院で修行するが、シメオンの修行があまりにも厳しいので他の修道士が真似て体を壊してしまうのを恐れた修道院が退去を求めるほどであったという。

シメオンは1人で洞窟にこもって修業をするようになるが、こうしたシメオンの難行苦行はやがて人々の知るところとなり、祝福を受けようとする者、病人や不妊の女性、悩み事を抱えた人がシリア国内やペルシャ、トルコ、スペイン、イギリスなどからシメオンのもとにやって来たと言われている。

31才の時、大勢の巡礼者や参拝者に囲まれて困惑したシメオンは石の柱の上に座って修行と説教を始めたという。柱は最初はそんなに高くはなかったが、だんだんと高くなり最後は12mになった、その上で37年間、68才で亡くなるまで1度も地面に足をつけることはなかったそうだ。

彼の死後、人々は柱の横に彼の墓を作ったが、遺体は、その後アンティオキアに移され、最後は帝国の首都コンスタンチノーブルに運ばれたという。

皇帝の命により、AD476年に柱があった跡に教会と修道院が造られたが、当時、オリエント最大の教会であった。
その後、11世紀には十字軍がこの地域を占領、12世紀になるとイスラムが奪い返し、城塞として使用したと言われている。
地震に数回襲われており、1898年の大地震で破壊されてしまった。

さて、 シメオン教会、
面積は5000㎡ほど、南翼のファサードを入ると8角形のホールの真ん中にシメオンの柱が置かれている。12mあった柱は1.5mほど高さの石の塊になっている、信者が削って持ち去ったのだそうだ。

復元図をみると、教会は8角形のホールから東西南北にバジリカ式の翼が伸び、全体として正十字のような形をしていたようだ。東翼が一番重要な礼拝堂で、後陣には主祭壇が置かれていたという。

教会跡にはあまり興味がないので皆さんの後について、500人もの修道士がいたという修道院、礼拝堂、洗礼所、修道士の墓などを見て聖シメオン教会の観光は終わり。

ギリシャ旅行時の添乗員の話から、シメオンは難行苦行を求めて柱の上に上ったと思っていたが、シメオンの難行苦行の修行は少年の頃からのことで、大勢の信者に囲まれ身動きが取れなくなり仕方なく柱の上で説教や修行をするようになったということのようだ。

ついでに、下衆の興味でガイドさんに柱の上の生活ではトイレはどうしたのだろうと聞いてみると、一番多い質問がそのことらしく、トイレの仕掛はしてあったとのこと。

聖シメオン教会の付近にはデッド・シティという忘れられた町があり、3~6世紀の教会や修道院など600以上の遺跡が発掘されているとのことだが、ツアーの観光スケジュールには入っていない。 (旅の日程へ)

アレッポ国立博物館

アレッポに戻って、市内観光はアレッポ国立博物館から。

見学者を迎えてくれるのは、入口に並ぶ異様な3神像である。ガイドさんによれば、右のライオンの上に立っているのが肥沃の神イシュタル女神像。あとの2つは力や権力の象徴、ハダト神で、トルコ国境に近いシリア北東部のテル・ハラフというBC9世紀の遺跡から出土したもの。

ドイツが発掘し、本物はベルリンに持っていったので、ここにあるのはレプリカとのこと。
何でハダト神が2体もあるの?、真ん中のハダト神はシンボルの牡牛に乗っているが、左のハダト神はイシュタルと同じライオン(ライオンはイシュタルの聖獣)に乗っているのは何でだろう、と言った感じだがガイドさんに聞き漏らした。

(オリジナルの3神像は第2次世界大戦で爆撃に遭い瓦礫になってしまったが、破片を拾い集めて現在修復中、2010年にはペルガモン博物館に展示されるらしい、いつかまたペルガモン博物館に行ってみたいものだ)

先史時代の部屋

18万年前、人間が洞窟に住んでいた時代にさかのぼることが出来るという。石器時代の弓や矢尻、木を切ったり肉を切った石刀、世界最古の農耕遺跡から出土した小麦など穀物の脱穀用具、壷や器などが展示されていているが、靴をつくる型が男女用に子供用まであってなんともほほ笑ましい。

日本の調査隊が発掘した土器なども展示されていてなんとなく誇らしい。

マリの部屋

マリはユーフラテス河の中流、メソポタミアからシリアに向かう交易路がユーフラテス河谷を離れる地点にあった。メソポタミア文明の中心地であり、宮殿の広さは3万平㎡、部屋数は300以上あったともいわれオリエントで1番大きい宮殿であった。

マリの歴史はBC3000年頃に始まり、シュメール アッカド アモン人の文明が入っていると言われている。BC1762年にハンムラビによって滅ぼされた。

楔形文字粘土板

宮殿の図書館で見つかったもので2万点以上にのぼる。契約、外交、商取引、祭儀などの文書。その内のいくつかが展示されている。

噴水の壷を持つ女神

手には壷を持ち、スカートには水の流れ模様が描かれている。壷からは実際に水が流れ出る仕掛けになっている女神像、色白で現代的なかなかの美形である。

シャンジェリジェを歩かせてみたらどうだろうという気もする、全知の女神であり豊穣の女神でもあるとか。

マリ王像

イシュタプ・イルム王像、素材に閃緑岩が使われている黒光りしている。マリの王様は目が大きく自分の王国のなかでなにが起こっているのかすぐに分かることを表しているそうだ。長いあご髭はアッシリア風らしい。

ブロンズ製ライオン像

マリのダカン神殿を守護する40cmほどのライオン像、神殿の入口には2頭のライオンが置かれていた(1頭はルーヴル所蔵)。目がぎょろっとして敵を威嚇していたらしいが、どことなく愛嬌がある。

円筒印章

回して押すスタンプ。契約書などにサインする判子として使用した。魔よけとしてネックレスにもしていたとガイドさん。

その他、パン焼き器などなど。