ディオクレティアヌス帝

舌を噛みそうな名前のディオクレティアヌス帝(在位284~305AD)は、添乗員の説明を待つまでもなく、有名な‘帝国の4分割統治’を実施したローマ皇帝として高校の世界史にも名前が出て来るほど一般に知られている。

ディオクレティアヌス帝はキリスト教を迫害したことで、後にキリスト教が支配したヨーロッパ社会からは非難されているが、ローマ皇帝としては5賢帝以降50年の間に何十人もの僭帝が現れるという混乱、また、蛮族(ゲルマン人などの異民族の蔑称)にしばしば国境を脅かされるという危機を終息させた皇帝である。

ディオクレティアヌスは僚友のマクシミアヌスを擁立して西の皇帝とし、帝国の東西を分担する態勢をとったが、当時の帝国の国境は1000kmにも及んでおり各方面からの蛮族の侵攻入に対抗するには、八方各地に大軍を常駐させ、皇帝自らも出陣する必要があった。このため、さらに皇帝の権能を分割して2人の将軍を副帝に任命、帝国の4分割統治をはかったと言われている。

この4分割統治が始まってから、ガリアの農民蜂起を鎮圧、ブリタニアの僭帝の討伐、エジプトなどアフリカ諸国の反乱を粉砕した後、かって、ローマ皇帝を捕虜とし、獄死させたこともある宿敵のペルシャとの戦争にも勝利、帝国の国境は暫し安泰となったのである。

もともとディオクレティアヌス帝は解放奴隷あがりの叩き上げの軍人であるが、政治手腕にも卓越しており属州を適正な規模に統合して行政を効率化したり、軍の指揮系統を属州から切り離して別系統の指揮下に置き軍の機動性を高めると共に属州の反乱の芽を絶ったりした。 また、4帝ともローマに居を構えることはなく、ディオクレティアヌス帝は治世20年間、ローマを訪れることは殆んど無かったと言われているのでローマの元老院は無視、専制君主制が始ったということのようだ。

ギボンの‘ローマ帝国衰亡史’などでもディオクレティアヌス帝の出身は属州のイリリクムとされていて、くわしくは述べられていなかったと記憶しているが、添乗員の話では、午前中のトロギール往復の途中で見たサロナ近くの小村に帝は生まれたのだそうだ。

ディオクレティアヌス帝は在位21年目に帝位を退いたが、自らローマ皇帝を退位した唯一の古代ローマ皇帝であり、彼が余生を静かにおくるために生まれ故郷の近くに造営した宮殿がディオクレティアヌス宮殿なのだそうだ。

ディオクレティアヌス宮殿

さて、昼食の後、ホテルでガイドさんと合流、徒歩でディオクレティアヌス宮殿に向かう。 宮殿見物後、現地でフリータイムとなりホテルには各自で帰ってくることになっているので、目印に気をとめながら皆さんの後について15分ほど歩いていると 高さ7~8mはあろうかかと思われる銅像が見えてきた、グルグール・ニンスキ司教像なのだそうで、足元に触ると願いが叶うとか。 もっとも20世紀になってからの作とのことなのでご利益があるのか、願い人しだいのようだ。

この像のところから4~5段下りたところが宮殿の北門となっており、門を入ってすぐのところに宮殿の復元図がある。

ガイドさんによれば、宮殿は南北215m、東西180mの広さで、東西南北に門があり、それぞれ銀、鉄、銅、金の呼び名がついていて、金の門の北門が宮殿の正門である。

宮殿の北半分は兵士や召使たちの居住区域、南半分には皇帝の住居や神殿、霊廟など豪奢な建物群が置かれていた。宮殿を囲む壁は厚みが2m、高さが20mもあるそうだ。
まるで、軍事城塞のようだが、ディオクレティアヌス帝はどんな隠遁生活をおくるつもりだったのだろう。

短い説明の後、狭い迷路のような通路を迷子にならないように気をつけながら歩いていると、いきなり賑やかな広場に出た、鉄の門(西門)の前に広がるナロドニ広場である。スプリットの町の中心らしく旧市庁舎や邸宅などが広場を囲んでいる。

さらにその先を進むと、お洒落な店が軒を連ねるマルモントヴァ通りがあるので、フリータイムにショッピングを楽しまれる方は、どーぞ、とガイドさんの案内である。

マルモントヴァ通りと言えば、朝、ホテルのフロントで美味しいスカンピの店はどこかと聞いたら、魚市場に面したノシュトロモ(Restaurant Nostromo)が良いと教えて貰っている。その魚市場がマルモントヴァ通りにあるらしい。実は、今日の晩飯はちょっと苦手なイカ料理なので、添乗員に離団する旨を伝えてある。