スルジ山

山側のプジェ門から旧市街を出てロープウエイの乗り場に向かう。振り返って見ると、深い堀のうえに城壁が築かれており高さは15~16mもあろうかと思われる。どっしりと頑強な感じで、陸側からの敵襲に備えるため特に堅牢に造られたようだ。

プジェ門から緩やかな上り道を10分ほど歩くとロープウエイの乗り場に着く、まだ新しいのかピカピカの感じである。

そう言えば、添乗員がバスの中で、スルジ山の元々のロープウエイはクロアチア独立戦争(19991~1995)の際、ユーゴスラビア連邦軍によって破壊され、やっと再建されたのが2年前です、わたしたちラッキー!と言っていた。

ロープウエイの定員は30名ほど、標高412mの頂上には3分で登る。展望台に上がると、眼下にはオレンジ色の旧市街が箱庭のように眺められ、その向こうに紺碧のアドリア海が広がり、そのうえ、空も晴れ渡っている。バーナド・ショウが、‘この世の天国が見たければ、ドゥヴロブニクに行かれよ’と称えたのは、この景色を眺めてのことなんだと納得しながらカメラのシャッター押す。

カメラを250mmの望遠にしてみると、先ほどまで見物していた大聖堂や聖ヴラホ教会が手に取るように鳥瞰でき、総督邸やスポンザ宮殿には中庭があることが分かって興味深い。

また、屋根の色をよく見ると、あざやかなオレンジに混じって所々にくすんだオレンジの屋根もある。独立戦争の時、旧市街も7割近い建物が損傷したと言われているので、戦後に復興されたのがあざやかなオレンジの屋根で、ぽつん、ぽつんと見えるくすんだ色の屋根が砲撃の被害をまぬがれたようだ。

フリータイムに予定している城壁ウォーキングのために城壁を見てみると、右の手前の山側の塔がミンチェタ要塞、城壁を辿っていくと入り江を挟んで2つ要塞が対峙しており、城壁の丸い要塞がボカール要塞で、市の外にあるのがロヴリェナツ要塞のようだ。海側にも幾つかの砦があるようだが、東の旧港を守るように突き出た要塞が聖イヴァン要塞、一見、倉庫のビルのようである。お昼を食べる時に通ったプロチェ門の脇にあるのがレヴェリン要塞、レヴェリン要塞は城壁の外にあるのがよく分かる。

フランシスコ会修道院

再びプラツァ通りに戻ってフランシスコ会修道院に向かう。プラツァ通りに敷き詰められた石灰岩の敷石は観光客に踏みしめられて大理石のようにつるつる、通りの両側には銀行、カフェ、ショップなどが軒を並べ、観光客が行き来きして賑やかである。

プラツァ通りの西の端辺りに高く聳えているのが、フランシスコ会修道院付属教会の鐘楼である。

教会に近づいてみると、簡素な入り口の上の壁の窪みにピエタの彫像がある。両脇の聖人のうち右側は手に十字架のついた棒を持っているので洗礼者ヨハネ、左の人物はダルマチア生まれの聖ヒエロニムスだろうか、窪みの上の像は父なる創造主のようだ。

教会の裏側に接して博物館があるとのことだが、修道院の入り口は西隣りの救世主教会との間の狭い路地を少し入った処にある。

フランシスコ会修道会がこの地に着いたのは1234年頃、最初の修道院は城壁の外に建てられたが、戦争の危険を避けるために城壁内の現在の場所に移されたと言う。1667年の大地震で倒壊したので、現在の修道院は付属教会共ども地震の後に再建されたもの。修道院には当初から小さき兄弟(フランシスコ会修道会のこと)の薬局が開設され、修道士だけでなく一般の人々にも開放されていた。それから得られる安定した収入が清貧を旨とする修道院の物資的な支えとなっていたらしい。薬局は現在でも引き続き営業しており、ヨーロッパでも3番目に古いのだそうだ。

修道院は入場観光であるが、残念ながら博物館内は撮影禁止となっているので、イコン画のような聖母子の絵などの宗教画、手写本や聖歌の楽譜らしきもの、修道士の外套、典礼の器具など見て回り、旧薬局では壁の棚に展示された数々の壺類、机の上のすりこぎや調剤器具などを記憶にとどめる。

さて、博物館を出たところに修道院にはつきものの回廊がある。修道院や教会の建物は大地震の後、建て替えられたが、この回廊は14世紀からのものだそうだ。2本の細い6角柱が1組になって庭を囲み、柱頭には植物や猿や牛などの動物、ユーモラスな人間の頭像のなど彫刻されている。庭には緑が茂るなか水盤も見えてロマネスクの回廊らしい。また、回廊の壁には、保存状態が悪くて判読し難いが、病人を癒す場面など聖フランシスコの生涯のフレスコ画が描かれていて、フランシスコ会の修道院と言った感じである。

オノフリオ大噴水

修道院のすぐ前の広場に15世紀に造られたオノフリオ大噴水がある、ナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァと言う人が造ったのだそうだ。

オノフリオは市の水道を造るために招かれたのだが、当時のダルマチア地方の水道は雨水を貯水漕に貯めて家庭に送水するのが一般的だったのに対し、彼は地下水を利用する方法を採り、10kmも離れた川から水を引いたと言われている。市内に入った水はこの16角形の大水槽やルジャ広場の小噴水に集められるほか、いくつかの蛇口が設けられている。大噴水は大地震によって装飾など失われたが、今でも16の蛇口から水を噴き出している。