モンテネグロ

8時過ぎにホテルを出発。今日は1日かけて隣国モンテネグロに遠出、ブドヴァ旧市街と世界遺産コトルを観光することになっている。昨日のドゥブロブニク見物で今回の旅行はもう店仕舞いの気分なので、今日はおまけと言ったと感じである。

例によってバルカン半島の地図を見ながらの添乗員のモンテネグロについてのお話(のあらまし);

モンテネグロの面積は福島県と同じくらいで1万3800㎢ 、人口は62万人ほど。

国名はモンテネグロ、セルビア語ではツルナ・ゴーラと言うが、モンテネグロもツルナ・ゴーラ、もいずれも黒い山と言う意味がある。

地図で見ると分かるように、北西側はボスニア・ヘルツェゴビナ、北東はセルビア、そして東側で一部コソボ、南はアルバニアに囲まれ、クロアチアとも僅かに接している。

国民はモンテネグロ人が43%、セルビア人が32%、そのほかアルバニア人、ボシュニックやクロアチア人などで構成されている。

言葉はセルビア語の方言を話し、パイプや逆Nのような文字なんかがあるキリル文字を使います。宗教はセルビア正教が74%、イスラム教が18%など。国旗はライオンを抱く双頭の鷲となっています、 モンテネグロ公国時代のものをアレンジしたものです。

平均の給料が3万円ほどで安い、物価も安い、観光業と農業が主で、産業はない、インフラもまだまだ整備されていない。独立後、ドイツマルクを使わせて貰っていたが、ユーロが導入されるとユーロを使うようになりました。

1991年にスロベニアが独立、クロアチアも独立を宣言、続いてマケドニアやボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言していきますが、モンテネグロはセルビアと新ユーゴスラビアを形成しておりました。モンテネグロが独立するのは2006年 になってからである。

南スラブ族としてのモンテネグロの歴史は基本的にはセルビアとほぼ同じです、人種も大して違いがないということです。9世紀にはビザンツ帝国の影響を受けて一時はキリスト教を受け入れます。中世になってセルビア王国が興隆してきてモンテネグロはセルビアに組み込まれます。

その後、セルビアに最盛期にもたらした国王が亡くなってから、モンテネグロは独自の道を歩み始め、オスマンのバルカン支配時にも一定の自治を確保していたとされています。その後、モンテネグロでは主教公(?)が政治を掌る神制政治と言うものが始まり、第1次世界大戦まで続きます。

ところで、 コソボですが、オスマンがバルカン半島に侵攻して来た時、コソボ平原でセルビアとオスマンの戦いがありました。最終的にはセルビア軍は敗れてしまいますが、この戦いでオスマンのスルタンをやっつけました。その英雄話が言い伝えられて、セルビア人にとってコソボは聖地だったのであります。

オスマンの撤退後、この地にはアルバニア人がどんどん流れ込んできて多数派となり、セルビア人は少数派になってしまいますが、セルビア人にはコソボは大切なところだったのです。

(20世紀、コソボ紛争ではセルビアの残虐ぶりが新聞やテレビで毎日のように報じられ、ミロシェヴィチ大統領は悪鬼のような扱われ方であった。圧倒的に数で勝るアルバニア人によるセルビア人の虐殺もあった筈だが、欧米メディアのフィルター濾しの日本ではそうした情報はほとんど伝えられず、一方的なセルビア悪玉論がまかり通り、NATO軍の空爆も単純に喜ぶ風潮であった)

そんなこんなで、モンテネグロ国境まで1時間、さらにトイレ休憩も入れて1時間弱コトル湾沿いを走る。車窓から眺めるモンテネグロの山は黒いようも見えるが、ディナルアルプスの石灰岩がスロベニアやクロアチアより黒いとも思えない。

むしろ、半島を南下するにつれて松などの木々が山肌を覆ってきて緑が濃くなるので、遠くから見ると山が黒く見えると云う見方も出来ると思われるが、どうなんだろう。

湾が狭まったところにあるカメナリと云う集落に着いて、バスごとポンポン船に乗って7分ほどで対岸のレペタネに渡る。