道中のあれこれ

ホテル出発は8時前、今日はスプリットから南下、今回の旅行のハイライトであるドゥヴロヴニクを観光することになっている。

クロアチアのハイウエイ、A1は首都のザグレグからドゥヴロヴニクの70kmほど手前のプロチェという町まで開通しているが、今日、われわれが走るのは国道8号線で、リエカからドゥヴロヴニクまで通じており、海岸線に近いところを走るようだ。で、その分、アドリア海に浮かぶ島々や美しい海岸線などが楽しめる。

バスが走り出して、バルカン半島の地図を指差しながらの添乗員の旅程の説明;

今日の午前中は、とりあえずは、ドゥヴロヴニクまで移動する。ドゥヴロヴニクには12時15分から30分に着ければと思っているが30分位は遅れるかも。

途中、2回のトイレ休憩をとるが、2回目のトイレ休憩をするネウムという処はクロアチアではなくボスニア・ヘルツェゴビナ領である。

スプリットからドゥヴロヴニクまでの220kmの海岸線で、一瞬、9kmほどはボスニア・ヘルツゴビナなのでドゥヴロヴニクは飛び地のようになっている。その辺りの詳しいことはネウムに近づいてからの話にしますということで、車窓には、沖合に霞んでいた島の輪郭がはっきりとしてきて集落らしものも見えてきた。ダルマチア地方のこの辺りには大きな島が3つ、ブラチ島、ファヴァル島、コルチュラ島があり、その最初に見えてきたのがブラチ島である。

このブラチ島から産出する石灰岩や大理石でディオクレティアヌス宮殿やアヤ・ソフィアなどが造られた。現在はオリーブなどの農業もあるが島の経済の基盤は観光業で、島の反対側の人気ビーチはリゾート客で賑わい、イギリス人、フランス人やドイツ人などの別荘もたくさんある。

ファヴァル島の話が始まったところで、オミシュという町に入ってきた。前方には断崖絶壁が聳えている。ここはツェティナ川の河口に開けた町だそうだが、断崖が海に向かって迫り出している光景は迫力がある。

このオミシュ、また、ヴェネツィアがダルマチア沿岸を支配していた時代には海賊の根拠地があったところで、ヴェネツィア支配に抵抗したオミシュの海賊はヴェネツィア船から財宝を奪うとツェティナ川を遡って逃げ断崖の奥に姿をくらましたらしい。

さて、ブラチ島をすぐ近くに眺めながら暫らく走ってブレラという町で15分ほどトイレ休憩。

9時半に再びバスが走り出すと、添乗員が良いことがありましたとしゃべり始めた。

われらのドライバーが妹さんに会ったのだそうだ、なんでも妹さんはドイツに住んでいて5年間ぶりにこの小さな町で全く偶然にも会えたということらしい。

ドライバーはスラヴォニア地方の出身で、戦争の惨禍時にも家族はスラヴォニアに止まったと聞いたが、子供が成長すると、それぞれ生活の場は拡がっていくようだ。

沖合に目を戻すと、ブラチ島に隠されていたフヴァル島が重なるように現れてきた。フヴァル島はブラチ島より少し小さいが、細長くて東西の長さが80kmもある。

フヴァル島はラベンダーで有名な島、ラベンダーはポプリ、ハーブティなど香りを楽しむほかアロマセラピイにも使われる。

この島は、また、ニースより日照時間が長く、からっとした典型的な地中海式気候のうえに物価も安く、魚も美味しいのでヨーロッパ中からリゾート客が集まってきてビーチや別荘などでスローライフを楽しむそうだ。

フヴァル島の南にはコルチュラ島があるが、フヴァル島とストンという町(牡蠣が美味しい、日本のものより小ぶりでぎゅっと締まっている、旬の時期にはドゥヴロヴニクからいっぱい食べに来る)から65kmも伸びているペリエシャツ半島に隠されてこちらからは見えない。

コルチュラ島といえば、マルコ・ポーロ。東方見聞録で有名なマルコ・ポーロは一般にはヴェネツィア生まれだと思われているが、こちらではコルチュラ島生まれと信じられているそうだ。マルコは父や叔父と共にヴェネチュアに移住し、その後、17才の時にアジアに向けて旅立った。黄金の国、ジパングはフビライの宮廷で聞いた噂らしい。

バスが進むにつれてゆっくりと表情を変える島の景色に見入っていると、少し大きな町並みが広がってきた、マカルスカと言う町である。マカルスカ・リビエラとも言われ、オミシュから繋がる沿岸リゾート地域の中心がマカルスカである。背景にはビオコヴォ山がせまり、前には澄んだ青い海が広がる海岸はご当地、リビエラと呼ばれるにふさわしいようだ。

さて、8号線が海岸線を離れプロチェという町を過ぎると突然、広大な田園地帯が広がってきた。ダルマチアの陸側では石灰岩が剥き出しの殺風景な風景に見慣れてきたが、突然、一面緑が広がる景色は新鮮で心地よい。ここはネレトヴァデルタと呼ばれ、デュナルアルプスの山峡を源流とし、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチアを230kmに渡って流れてきたネレトヴァ川がアドリア海の河口に沖積した湿地帯である。

広さは1万2000ha、パッチウワークのような田畑を囲って水路が巡らされて、レモン、オレンジやブドウなどの果樹やトマト、スイカなど野菜が生産され、ドゥヴロヴニクの胃袋を充たしているのだそうだ。
再び、海岸線沿いに戻って、少し走ると、ボスニア・ヘルツェゴビナの国境である。

なぜ、クロアチアの海岸線に9kmだけボスニア・ヘルツェゴビナ領があるのか、添乗員の話を少し補足すると、次のようである。

オスマン・トルコが第2次ウィーン包囲攻撃に大敗、その後も各地で敗北を重ねた結果、1699年にカルロヴィッツで講和条約交渉が行われ、ハンガリーなどを割譲させられることなった。ネウム周辺はラグーサ共和国(ドゥブロヴニクは当時ラグーサ共和国と呼ばれていた。ナポレンの占領によって消滅)のものとされたが、ダルマチアがヴェネツィアに与えられたので、共和国はヴェネツィアに侵略されるのを避けるためネウム周辺を緩衝地帯とする思惑があって、トルコにはっきりとした返還要求はしなかったそうだ。

ドライバーが書類を提出して入国審査を終えると、4~5分でネウムの町なかに着き、カフェ併設のスーパーマーケットでトイレ休憩とショッピングタイムとなる。

ショッピングはボスニア・ヘルツゴビナなので通貨はマルカである。もっとも、観光客や近くのクロアチアの人も、物価が安いとかで、買い物にくるのでクロアチアのクーナも通用する。

われらがご一行さまは食べ物の補給や土産物をゲットして満足げである。自分はショッピングに興味がないので皆さんの話を聞いていると、1マルカが4クーナほど、また、ユーロも受けてくれるそうだ。1マルカ≒0.55ユーロくらいらしいので、ユーロを幾らで買ったかによるが、日本円では大雑把に55~60円ほどのようである。