12時40分、昼食を終えて次の観光地ポレチュに向かって出発する。
ポレチュはイストラ半島の西海岸の先端近くにあり距離はシュコツィアンから90kmちょっとだがクロアチアへと国境を越える。

陸上での国境越えはシェンゲン国間のフリーからヨルダンの検問のようにスーツケースを検査場に運びいちいちX線を透すところ(おまけに礼拝の時間が重なると検査はストップとなる)まで様々であるが、スロヴェニアの出国はドライバーが書類とパスポートを纏めて事務所に提出、スタンプが押されて終了。クロアチアの入国審査は係官がバスに乗り込んできてパスポートと現物をチェックして終わり。

再びバスが走り出して、添乗員のポレチュについての説明が始まる、添乗員の話はあっちに飛んだり、こっちで跳ねたり、怪しげな説明もあったりして賑やかであるが整理すると次のようである;

ポレチュの町は人口が1万2000人ほどだが、イストラ半島の観光やリゾートの中心で、これからバカンスに入ると10倍以上に膨れ上がる。
ポレチュはローマ時代からの町でデクマヌスという当時のメインストリートが今でも残っていて町のショッピング街となっている。

ローマの後はビザンチンやヴェネツィア、オーストリアに支配された。半島の城壁などはほとんど撤去されているが5角形の塔や円塔など当時の遺跡が一部残っている。が、なんと言ってもポレチュの観光の目玉はエウフランシウス聖堂である。
1997年に‘ポレチュの歴史地区にあるエウフランシウス聖堂の司教建造物群’としてユネスコの世界遺産に登録されている。

エウフランシウス聖堂はエウフランシウスという人によって6世紀に建てられたものだが、もともとここには4世紀にはすでに礼拝堂があり、4世紀中にはバジリカの教会に拡張された。礼拝堂や教会の床や壁には美しいモザイクが施されていたが、これらの跡は保存され、また博物館に収められている。

バジリカはローマで裁判所や取引所として使われた長方形の建物であるが、後にキリスト教でも多くの信者が集う教堂の建築にバジリカ方式が取り入れられた。
エウフランシウス聖堂は身廊と2つの側廊を持つバジリカであるが、聖母マリアに捧げられた最初の聖堂の1つである。

エウフランシウス聖堂と言えばモザイクと言われるほど、後陣に描かれたキリストと12使徒や聖母マリアなど金のモザイクは初期ビザンチンの傑作がそのまま残されている珍しい例だと言われている。などなど・・・・・

3時の予定が10分ちょっと遅れて、町はずれのバスセンターでガイドさんと合流、トイレ休憩の後、エウフランシウス聖堂に向かう。ガイドさんは長身の若者で、添乗員によれば歴史好きだそうなので説明が楽しみである。

海岸沿いの道を半島の先に向かって歩く、気温が32~33℃に上がっているそうだ。暑さに慣れていない身体にはきついが、海風がさわやかである。

歩き始めてすぐに右手に見えてきた建物は市役所だと添乗員が説明してくれる、3連のアーチ、レンガの壁とその上の薄茶色の壁のコントラストがお洒落でエレガントである。
その先がナロドニ広場で屋台の土産物屋などが並んでいる、ナロドニとは学生時代が懐かしい‘ヴ・ナロード(人民の中へ)’からきているのであろうか?

広場の奥には円塔が見える。添乗員がバスの中で説明していた円塔で、中世の城塞都市の名残らしいが、カフェ・バーの看板がある。現代のポレチュ人は中世の見張り塔をちゃっかり廃物利用しているようだ。

しばらく海岸沿いを歩き、右折する。細い路を進んでいると旧市街を東西に走るデクマヌス通にぶつかった。デクマヌス通は古代ローマの都市計画で、東西に走るメインストリートである(南北の道路を何と言うのか度忘れしたので、後でガイドさんに聞いたら、即座に‘それはカルドだ’と答えて呉れた、さすが歴史好きのガイドさんである)
2000年近くに渡って踏みならされた石畳はつるつる、シャッター押すことに気をとられていると滑りそうになる。

そんなこんなでエウフランシウス聖堂の正門に着く。入口の上にキリストのモザイクがあり流石と思っていると、これは20世紀になって作られたものとのこと、で、文字の意味は聞き漏らしたが、確か聖書に私は門であるという言葉があった気がするので、多分、そんな意味のことが書かれているのかも知れない。