ペリスティル

再び宮殿に戻って、カフェやらレストランなどでごちゃごちゃした通路を歩く。かってはユピテル神殿であった洗礼室をちらっと眺めながら進んでいくと、宮殿の中心に位置するペリスティル(周柱式?)という中庭につく。ディクレティアヌス宮殿の中庭の北側にはコリント式の円柱が並んでいる。宮殿は例のブラチ島の石灰岩で造られたと言われているが、列柱には質の良い大理石が使われたようだ。

列柱に接して鐘楼が聳え、後ろに8角形の大聖堂が繋がっている。大聖堂はもともとディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられたものだが、後に宮殿に移り住んだキリスト教徒がキリスト教の聖堂に転用したものだそうだ。現在の鐘楼は19世紀に建て替えられたものとか。

(ローマ帝国衰亡史では、現在、解説書でユピテル神殿だったと言われているのは‘アスクレピオス神廟’であり、ディクレティアヌス帝の霊廟とされているのが‘ユピテル神廟’だったと述べられていたと記憶している。アスクレピオスはギリシャ神話に登場する名医で医術の守護神である。現在でもアスクレピオスのヘビの巻きついた杖は医学の象徴とされている。

ディクラティアヌス帝がユピテル神を武運の神、アスクレピオス神を健康の守護神と尊崇していたとすれば、8角形の聖堂はユピテル神廟、洗礼室はアスクレピオス神廟だったというギボンの説が肯ける)

ベスティブル

ペリスティルの東面が私邸の玄関(ベスティブル)となっている。ディクレティアヌス宮殿の観光写真などでよく目にするのがペリスティルを囲むこの私邸玄関と列柱である。

旅行の前に見た写真では、荘重な感じながら、ところどころ崩れかけていていかにもローマ遺跡という感じであったが、4年ほど前に修復されたとかで、すっきりしているが重厚さに欠ける気がするのだが、どうだろう。

このベスティブルをグーグル・アースで上方から見ると白い正方形の屋根の真ん中に穴があいていて奇妙な建築物のように見えるが、半地下になっている入口を入っていくと円形のドーム構造になっている。ここが玄関ホールで、訪問客が皇帝を待つロビーのような役目をしたらしい。壁はモザイクなどで豪華に装飾され、くぼみには彫像が飾られていたと言う。現在、見上げる天井の真ん中の穴は当時はなく、ドーム屋根で覆われていたそうだ。

ベスティブルを進み、屋台などが並ぶ地下通路を抜けると、ちょっとした広場になっており、ここから大聖堂と鐘楼のベスト・ショットが望めるとかで暫しカメラタイムとなる。

この後、厨房跡に向かっているとブーゲンビリアが民家の壁を覆うように咲き誇っている。ブーゲンビリアが原色のように濃いのは早くも気温が32~34℃にも上がっており亜熱帯のような気候となるためかも知れない。

宮殿地下

宮殿の地下には銅の門のところから下りる。地下通路の両側には土産物が並び、少し進むと宮殿の復元図がかかげられ、さらに進むと巨大な柱とアーチ型の天井が大空間が広がってきた。添乗員の話ではディクレティアヌス宮殿の地下は一般の地下室と違って地上階を支える構造物で地上階と同じ造りになっているそうだ。

ディオクレティアヌス帝の死後、7世紀には南スラブに追われたサロナの人々がこの宮殿に住みつくようになり、この地下室はオリーブやワイン造りや倉庫としても使われたようだ。その後、住民が増えるにつれてゴミ捨て場にされ、地下室にはびっしりと生活ゴミが詰め込まれたと言うわけだ。このことがかえって保存状態を良くし、近世になって調査が行われゴミが取り除かれると、現在のような地下大空間が現れたということらしい。

地上階と同じ造りになっているので地下室をみることで地上階の部屋を想像出来ると云うことだが、当時あったであろう浴室、寝室、大広間、食堂、バジリカなど、想像力の乏しい自分には皆目見当がつかない。

ところで、地上階と同じ構造物を地下に造ったのは何故だろう。敷地が斜面になっていたので、それを調整するために地下室を造ったと言われていが、地下空間を見る限り手前の高さと奥の高さにさほどの差はないようである。ならば、こう言う考えはどうだろ、つまり、敷地が海面すれすれか低かった、で、海面より高い地上階にするために地下構造物を造った。こうして帝は燦々と輝く太陽を浴び、また海から吹き寄せる心地よい微風を満喫することが出来た。

1時間ほどでディオクレティアヌス宮殿の見物が終わり、後はフリータイムとなる。大聖堂とか洗礼室を見ても仕方が無いので、宮殿を出てマルモントヴァ通りのレストラン、ノシュトロモに行って、スカンピの予約を入れてホテルに戻る。

日はまだ高いが7時にレストランに入る。サラダとスカンピ4匹にビールとコーヒーで日本円で3000円ほど。スカンピは食べるところがあまりないが、それにしてもスプリットの有名レストランで3000円とは、クロアチアは物価がお安いようで。