‘バルカン半島4カ国周遊9日’の旅もあっと言う間に終わりに近づき、今日はモスタル観光の後、サラエボ空港14.40分発のトルコ航空で帰国の予定である。

隣の国のボスニア・ヘルツェゴビナであるが、3回の出入国があり、時間が読めないとかでホテル出発は6時と早い。

バスは一昨日、ドゥブロブニクにやって来たルートの逆戻りの感じで8号線をネレトヴァ川まで戻る。右折して上流に向ってしばらく走っているとクロアチアの国境のMetkovic(メトコヴィチ?)に着く。

クロアチアの出国審査はドライバーと添乗員が書類を提出するだけで済み、ボスニア・ヘルツェゴビナ側では係官の顔チェックが行われるが無事に終わる。

3回の出入国審査がいずれも渋滞なく通過出来たので予定より30分くらい早くボスニア・ヘルツェゴビナに入った感じである。

で、ネレトヴァ川を車窓に見ながら、余裕の添乗員のお講義が始まる;

ネレトヴァ川を上流に遡っていくとモスタルやサラエボがありますが、今でもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争による無残な銃痕が民家の壁に残っています。1992年に始まった内戦は第1次大戦と第2次世界大戦に次ぐ死傷者を出した悲惨なものだったと言われています。

ボスニア・ヘルツェゴビナの面積は九州よりやや大きく、5万1千㎡。南から北までぐるっとクロアチアに囲まれ、東側はセルビアとモンテネグロに接しています。

北部がボスニア、つまり、ボシュニャクで大陸性気候、南部のヘルツェゴビナはヘルツェグ公(?)に由来すると云われ地中海性気候、人口は370万人ほどです。この地はカソリックと正教の最前線でしたが、15世紀から400年に渡り全域がオスマンの支配下になってイスラム教に改宗した人たちがボシュニャクと云われています。オスマンの時代から農業に依存する貧困な地でユーゴスラビア時代にもマケドニアに次ぐ貧しい国だったと云われています。

ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦ですが、スロベニアやクロアチの独立に続いてボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人やクロアチア人が主導して独立の宣言をしました。これに反対するセルビア人との間で対立が激化し、軍事衝突となったのが内戦の始まりでした。

当時、ボスニア・ヘルツェゴビナには ボシュニャク人が44%、セルビア人が33%、クロアチア人が17%住んでいました。中世の頃から居住区は混在し、異教徒どうしの結婚もあったりしました。

が、内戦が始まると支配地域のぶんどり合戦となり、民族浄化と称して大量虐殺やレイプなどが行われました。NATOの空爆などもあってアメリカのデントンで和平合意が行われ3年半に及んだ戦闘が終結します。その結果、ボシュニャク人・クロアチア人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国と云う国家を持つ連合国家となっています。

そんなこんなで10時過ぎにモスタルの駐車場に到着、旧市街の観光に向かう。カソリック教会の横を通り幹線道路を渡るが、この辺りがボシュニャク人とクロアチア人が戦った最前線のようで、周囲の建物には無数の銃痕が残されていたり、廃墟となっているビルもあり無残である。

で、少し歩いているとネレトヴァ川に架かる石造りの橋が見えてきた。添乗員によればこの橋は‘スタリ・モスト’(古い橋)と呼ばれ、オスマン帝国のスレイマン大帝が造ったもので長さが30m、川面からの高さは24mあり9年がかりで完成したそうだ。

橋脚のない30mの石造りのアーチ橋 なので、建設中、足場はどのように組まれていたのだろう、水量が増した時など、崩れたりしなかったのだろうか、石をアーチ状に積み上げる時、落下したりしなかったのだろうか、などなど疑問が湧いてくる。オスマン帝国にはこうした問題を克服する技術があったと云うことのようだ。

ボスニア内戦の時、この橋はクロアチア人勢力によって破壊されたが、2004年に復元されユネスコの世界遺産に登録されているそうだ。橋の上から眺めるとネレトヴァ川は深いエメラルドグリーンの悠久の流れのようであり、人間の愚かさ包み込んで泰然自若としているようである。

この後、ボシュニャク人の土産物屋の通りを少し歩いて、集合場所の駐車場に戻る。添乗員の話ではトイレのオバサンが昨日は47℃あったと言っていたそうだ。(聞き間違?)

で、一路、サラエボ空港へ。

30人の大所帯であったが、皆さん明るく親切で楽しい旅であった。伊予弁まるだし、前回の旅程説明資料を日付も変えずにコピーして皆さんに配った横着者の添乗員も、それなり好感が持てた。で、クロアチアの旅もおしまい。