11時20分過ぎにシュノンソウを出発。次のお城はクロ・リュセ城館かアンボワーズ城かのどちらかを選択することになっているので、シカゴの夫妻の希望でアンボワーズ城を見物することになる。
もともと、ロワールくんだりまで来て、片っ方だけを見て済ますつもりはなく、もう一方は昼食の時間に見ることにしているので、どちらでもいいわけだ。

で、まず日本語のカセットテープが回り始める、「アンボワーズは現在、人口13000人ほどの小さな町であるがその歴史は古く、また、とても豊かなものです。アンボワーズの城塞、この城塞は町を見下ろす小高い岩盤上に建造されており、現存する建造物はガリア・ローマ時代から建築が始められた数多くの城塞を継承するものです。
アンボワーズでは非常に早くからロワール川に橋が架けられ商人と町に多大な利益をもたらし、城塞の戦略的重要性を強固なものにしました。11世紀には高台に2つの要塞と町に1つの要塞があり、これら3つの要塞は絶えず抗争を繰り返していました。歴代のアンボワーズ伯が優位に立ち、シャルル7世が領地や城塞を没収して宮廷に併合するまで、この地域はアンボワーズ家の支配下に置かれていました。

15世紀はアンボワーズの黄金時代でした。国王ルイ11世とアンボワーズ生まれのシャルル8世が町の拡張を続けました。15世紀末はフランスにおけるイタリアの影響の始まりを印す時期でしたしたが、アンボワーズでは城館の造営が進んでいたのでイタリアの影響は殆んどみられません。
15世紀の終わりから16世の初めにかけて国王シャルル8世とフランソワ1世がアンボワーズの城に君臨することによりアンボワーズの町は歴史上とても重要なものとなりました。

シャルル8世はアンボワーズ城で悲劇的な生涯を閉じました。1498年、城内で行われる球技を見るために王妃を連れていた王はアックルバックのギャラリー(用便に使われていた悪臭を放つ通路。中世の城では、城壁の張り出しにトイレが作られていた。窓がなく、床に穴があるだけで、その穴にまたがって排泄すると直接下に落ちるという仕組みだった)の門のかまちに額をぶつけてしまいました。
そして試合の観戦中、突然意識を失ってしまい、その日のうちに息を引き取ってしまいました。

もう1人の重要な人物、フランソワ1世はシャルル8世のあとを引継ぎ、イタリアルネッサンス様式をロワールに広めました。また、レオナルド・ダ・ヴィンチをアンボワーズ城に呼びよせました。レオナルド・ダ・ヴィンチは晩年の4年間をアンボワーズ城に近いクロ・リュセ城で過ごしました・・・・・」

移動の時間が短いので、カセットの解説も最後の方ははしょった感じで、フランスにおけるカトリックとプロテスタント(ユグノー)の宗教戦争の導火線となった‘アンボワーズの騒動’に触れる余裕はなかったようだ。
アンボワーズの騒動の発端は1500人余りユグノーが若いフランソワ2世を拘束して強行派カトリックのギーズ一派を排除させようとしたものだが、陰謀が発覚、捕えられたユグノーは八つ裂きにされたり、馬車でひき殺されたり、城壁に吊り下げられたりなど城内外に足の踏み場がないほど死体が溢れる凄惨な虐殺が行われたと言われている。
あのカトリーヌ・ド・メディシスもフランソワ2世夫妻と共にこの断末魔の苦しみの一部始終を見させられたらしい。

さて、城壁直下の駐車場から城内に入る坂道の途中のチケット売り場でチケットを買ってもらってフリータイムとなる。午後は1時35分にロワール川に沿ったインフォメーションの辺りに集合することになり、昼食時間にクロ・リュセを見に行くと告げていたので、セクレが場所と時間を書いたメモを渡してくれる。2時間弱でアンボワーズ城とクロ・リュセ城館を見なくてはいけないので駆け足の見物になりそうだ。

ゴシック様式の居住棟

短い地下道を上ると、一面手入れの行き届いた芝生の向こうに直角に曲がった建物が目に入る、左がゴシック様式のシャルル8世の翼棟で、右手の建物がルネッサンス様式のルイ12世とフランソワ1世の翼棟である。屋根に付けられた天窓の装飾が素朴ですらっとしているのがゴシック様式で、ピナクルが幾つも立つ凝った装飾がルネッサンス様式と言う事なのだろうか。

護衛兵の間、順回路

入口を入ったところが、中世のお城では通例の護衛兵の間で、王の住居階への出入りをこの通路から監視する役目があった。暖炉と粗末な食堂テーブルが置かれている。
衛兵の順回通路には16世紀の末のアンボワーズ城の設計図の複製が掛けられていて、当時の城の全景を窺うことが出来る。フィレンチェの大使がここは城と言うより都市であると書き送ったと言われているが、ルイ13世やナポレンの時代に解体され、現在残っているのは王の居住棟など2割ほどになっているそうだ。

三部会の間

三部会は聖職者、貴族、平民からなる身分制の議会で、王国のさまざまな問題について議論が行われたが、主たる議題は戦費の調達や王の財政支援など課税についてであったと言う。あのカトリーヌ・ド・メディシスが摂政の指名を受けたのも三部会であったそうだ。

他方、王は江戸の将軍のように有力貴族に宮殿の近くに妻を伴って数ヶ月間滞在するように要求したため、貴婦人が宮殿に出入りし、華麗な接見や祝宴、饗宴が行われるようになったそうだ。そうした場合、城のなかで1番大きいこの三部会の間が真っ先に使われたとのこと。

現在では、往時の華やかさは影もなくガラントとして殺風景なこの広間だが、シャルル8世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュのシンボルがあちこちにちりばめられているようだ。
対面する2つの暖炉のうち、ゴシック様式の暖炉(もう1つはルネッサンス様式)の台形の換気炉には天使に支えられた2つの紋章がある。左の3つの百合はフランス王家、右はブルターニュ公国の白イタチ(1つは百合のようだ?)、さらに換気炉の上部は百合と白イタチがちりばめられており、剣に炎がからまったような模様も見られるが、これはシャルル8世のシンボルだそうだ。また、暖炉の枠にはAの文字が刻まれているが、これは王妃のイニシャルらしい。

さらに、広間の中央の列柱にも交互に百合と白イタチ、天井アーチのリブの交差点には王と王妃のイニシャル(CとA)が刻まれている。
ブルターニュ公国はイギリス王家とも繋がっており百年戦争の一因でもあったが、アンヌ・ド・ブルターニュがシャルル8世の妃となったことでフランス王国と人的に結びつき、やがてカトリーヌ・ド・メディシスの息子のフランソワの時に併合されることになる。

ルネッサンス様式の居室

豪華なタペストリーが3方に掛けられている給仕係の間、精巧な装飾が施された大きなベッドが鎮座ましますアンリ2世の寝室などを見た後、ルイ・フィリップの居室に入る。
ルイ・フィリップと言えば、19世紀のいわゆる‘フランス国民の王’であり、中世にかけての要塞であるアンボワーズ城には違和感があるが、ルイ・フィリップの母親アデライード・オルレアン公爵夫人がこの城を相続し、さらにルイ・フィリップが受け継いだと言うことのようだ。

書斎はルイ・フィリップの時代にあわせて復元されたということだが、テーブル、椅子などの家具には興味がないので暖炉の横に飾られている女性の肖像画に目をやる。頬杖をついたなかなか魅力的なポーズのこの女性がルイ14世の曾孫にあたるアデライード・オルレアン公爵夫人、すなわち、ルイ・フィリップの母親である。

寝室にでんと備えられた深紅のベッドはキングサイズで、しかも船形をしており、ダヴィットのレカミエ夫人のように横に寝るようになっているが、寝心地はどうなんだろう。
壁に飾られている肖像画から1点:幼いバリ伯を抱くヘレーネ・メクレンブルグ・シュヴェリン公爵夫人(ルイ・フィリップ国王の長子の妻)も、なかなかの美人らしい。彼女がフランスにクリスマスツリーの風習をもたらしたと言われている。

音楽のサロンの壁にはルイ‧フィリップの王妃マリー‧アメリーとその2児の肖像画やルイ‧フィリップの父のルイ・フィリップ・ジョゼフ(別名エガリテ)の肖像画など。
そしてグランドピアノの上にはアルジェリアの首長アブド・アル・カーディルの肖像画がのっている。

このあと、ミニームの塔の屋上に出てみると、高台から直接、城壁が聳えているので、まさに要塞といった感じである。眼下に見るロワールの町並みは小じんまりとして中世の雰囲気を残している。
馬にのったまま城のテラスに出入り出来たという騎兵の傾斜路を通って城館を出て、 アンポワーズ城の見物はおしまい。‘’

シャルル8世、ルイ12世やフランソワ1世など15~16世紀のアンボワーズ城の黄金時代に因んだ展示が見られるものと期待していたら、19世紀のルイ・フィリップを見せられるとはちょっと意外であり残念でもある。アコ・ディスポ社のコース案内が‘クロ・リュセ’ or ‘アンボワーズ城’となっているのには意味があることが分かった。

小さいながらもゴシック様式の傑作と言われ、レオナルド・ダ・ヴィンチの棺が納められているサン・テュベール礼拝堂を見る余裕がなく、クロ・リュセ城館に急ぐ。