3時15分、今日のお城巡りの最後、シャンボール城に向う。
解説によれば、シャンボール城館はフランスにおけるクラシック様式の大建築の先駆けをなすもので、王侯貴族達がいつの世にも好んで狩をしたソローニュの森のはずれ、周囲32kmの塀に囲まれた広大な庭園のなかにある。
フランソワ1世は21才の時に、マリニャンの戦いに勝利して、ミラノ公国を手にいれて帰国したが、イタリアルネッサンス建築に触れた後では、アンボワーズ城やブロア城の大改築工事を行ってももう古い王宮には満足出来なかった。そこで、15~16kmほど先の森のはずれに理想的な城を建設することに決めた。

1519年に着工された城館は、中世の要塞としての外観を残す4つの大きな円塔に囲まれた中央のドンジョン(主塔、日本流に言えば本丸?)、建設途中で追加された2つの翼棟、さらにこれらを囲む城郭(回廊)で構成されているが、テラスやロッジア?など随所にイタリアルネッサンス建築様式が取り入れられている。
もともとは狩猟用の離宮として構想されたものただが、正面156m、奥行き1176m、426の部屋など桁外れの城館となってしまった。

この城館の見所の1つは、2重螺旋階段で、一方の階段から他方の階段を通る人の姿を見ることは出来るが、決してすれ違うことがないようになっていて、レオナルド・ダ・ヴィンチの発想だろうと言われている。もう1つは屋上のテラスで大小の塔、煙突、屋根裏部屋などフランボアイアン・ゴシックとイタリアンルネッサンスが奇妙に融合している。このテラスから狩猟隊の出発や帰還、騎馬試合などを見物することが出来た。また、テラスのあちこちにある物陰はひそひそ話、陰謀、情事などに格好の場所を提供した・・・・・・。

シャンボール城はフランソワ1世の道楽のために造られたとも言われているが、ブロア城やアンボワーズ城など王宮の改修や幾たびもの戦争で国費を費やしたうえに、パヴィアの戦いでは捕えられて息子2人を人質に差し出し、莫大な身代金を要求されたりしてもシャンボール城の工事は続けたと言う。ところが、自身は大敗の教訓から居をイル・ド・フランスに移してしまったので、城の主要工事が完了した後の10年間で王がシャンボール城に滞在したのは合わせて72日ほどだったらしい。
戦争に費やした費用、身代金、城館の建設費など湯水の如く使われた途方もないコストは貧しい農民や商人から搾り取ったものに違いない。

そんなこんなで、シャンボール城に到着、正面(回廊中央の入口は王の門と呼ばれているが、本来の正門は裏手側?)に立ってみるとさすがにでっかい。全景を収めようと40~50m下がっても城郭の両端がカメラに入らない。今まで見てきたシュノンソーやシュベルニーはシャンボールと比べると、いかにも‘貴族のお屋敷’と言った感が否めない。

正面に立って感じることはもう1つ、屋上ににょきにょきと立っている大小の塔、煙突、屋根の天窓などは、まるでオモチャ箱をひっくり返したようでまとまりがない。フランス後期ゴシックとイタリアルネッサンスの融合が織りなす屋根の一大スペクタクルと評する向きもあるようだが、法隆寺を尊び姫路城を良しとする者からすればいかがなものかなと思われる。

2重螺旋階段

さて、ドンジョンに入ると中央にレオナルド・ダ・ヴィンチが考案したとも言われる2重螺旋階段がある。大きな円柱の周囲を、重なり合う螺旋状の階段が別個に2階、3階さらに頂塔まで上昇して、相互の階段は途中で交差しない構造になっている。したがって、例えば階段を上っている場合、下ってくる人の姿を円柱の隙間から見ることは出来るが、すれ違うことはない。

階段の近くでみると、螺旋状に上っていく階段のすぐ上に手すりがあるが、これは重なっているもう1つ螺旋階段の手すりなので、目の前の階段をいくら上ってもこの手すりにはたどり着けないと言うわけだ。

王たちの住居(アパルトマン)

絵画ギャラリーをちらっと覘いて2階に上る。シャンボール城はフランソワ1世亡き後、アンリ2世が礼拝堂翼棟の工事を続け、その後見捨てられた時期もあって、実際に完成を見たのはルイ14世の治世になってからとされている。(もっとも、グーグルの鳥瞰図で見るとドンジョンを取り巻く回廊の4隅の円塔の2つは土台のままでいかにも素っ気ない、未完成の仕掛品と思われるがどうなんだろう)

王の居室

派手好きなルイ14世はこの城が気に入り、定期的に訪れて狩猟や演劇など楽しんだそうだが、王の居室は当時のフランス王家の作法に則り、広間を仕切って衛兵の間、第1の控えの間、第2の控えの間、王の寝室、閣議の間と続く間取りが作られた。

第1の控えの間は王が食事をしたところ、 第2の控えの間では廷臣たちが隣室の王の起床を待っていた。
王の寝室は豪華に装飾され、枠で仕切られた奥に深紅のベッドが置かれている。王の起床と就寝の儀式の舞台装置らしいが、下々には起床と就寝の儀式がどうようなものかとんと頭に浮かんでこない。もっとも、カトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の初夜ではフランシス1世がことの成り行きを見届け、翌朝には教皇クレメンス7世が新郎新婦のもとを訪れて婚姻がなされたことを祝福したと言われているので、王のプライバシーは窮屈だったようだ。

その後、亡命してきたルイ15世の王妃の父親のスタニスラス・レクチンスキーポーランド王やサックス元帥などがシャンボール城の住人となったが、現在の装飾はサックス元帥時代のもので、調度品は当時の情報を元に復元されているのだそうだ。

フランス革命時には飼葉倉庫、刑務所、軍の拠点として使用されたり、また、民衆による破壊、略奪が行われたので、オリジナルなものは殆んどないらしい。

王妃の居室

王の居室に隣接した円塔のなかに王妃の居室がしつらえてある。もともとは、フランソワ1世の居室であったが、17世紀にルイ14世の王妃マリア・テレサの居室になったもので、王妃の儀式用の居室は王の居室と同じように護衛兵の間、2つの控えの間、寝室と私室からなっている。

フランス王室の作法に従った王妃のベッドは夫婦生活用のもので、ルイ14世は自分の居室とつながった廊下から王妃のもとにやってきたのだそうだ。王妃マリア・テレサが亡くなった後はこの部屋は2番目の妻のマントノン公爵夫人のものとなったが、秘密結婚のため王妃の居室と言うわけにはいかなかったらしい。