今日は午前中にブロワ城を見て、一旦、トゥール戻って午後はシノン城を見物、夕方にはTGVでパリに帰る予定である。
シノン城はジャンヌ・ダルクが初めて王太子シャルルに謁見したところであり、ブロワ城は彼女が勢揃えして初陣に出発したところである。
折角、ロワールくんだりまで出かけるのならジャンヌ・ダルクの跡も尋ねてみたいと思っていろいろ調べてみたが、トゥールやブロワ発の現地ツアーでもシノン城へ行くツアーはないので今日は一人旅である。

トゥール発、7時6分の予定が1時間以上遅れて8時12分に出発。在来線の自由席だが、テレビでよくみるヨーロッパの列車の旅のように座席はコンパートメントになっていて8人くらいは座れそうである。だが、週末のうえに早い時間なので乗客は少なくコンパートメントが独り占めである。
ブロワまで40分ほどあるのでブロワ城の歴史やジャンヌ・ダルクのことなど、いつものようにどろ縄をする。

ブロワ城のお話

ブロワには9世紀にすでに砦があったと伝えられており、10世紀の中頃からはブロワやトゥールを領有したブロワ伯家が300年近くにわたって封土を保持し、ロワール川に橋が架かる要衝に位置するブロワ城塞の改築を重ねたと言う。ブロワ伯家はさらにシャンパーニュ地方も支配下に収め、こちらを重視するようになったらしい。

14世紀末になると、シャルル6世の弟のルイ・ドルレアン公がブロワ伯領を買収、ブロワにはオルレアン公の宮廷が置かれることとなったが、15年後には公は暗殺されてしまう。

長男のシャルルが若くしてブロワを相続するが、時は100年戦争の中頃のこと総指揮官として従軍した彼はアザンクールの戦いでイギリス軍に捕えられる。身代金を払えなかった彼は25年の長きにわたって捕虜生活を送ったが、無聊を慰めたのは詩歌の素養で幾多の名歌を読んだと言われている。

1440年にやっとブロワに戻ることが出来たが、それまで彼は2人の妻と死別してやもめとなっており、50才にして名門出の文学にも造脂の深いマリー・ド・クレーブと結婚した。彼女はおん年14才であったと言う。さらに、神は彼の長年の辛苦のご褒美に71才にして男の子を授けたのである、ルイと名付けられたたその子が後のルイ12世である。71才で子供をつくることは日本でもどこかで聞いた気がするが、いずれにしても凡人には叶わぬ夢である。

ジャンヌ・ダルク

ご存知のように、‘オルレアンの乙女’と呼ばれたジャンヌ・ダルクは、1412年ロレーヌ地方の農家に生まれた。時は百年戦争の末期、フランス北部はその頃ブルゴーニュ派と連合したイギリスに占領されていた。ごく普通の農村の娘であったジャンヌは13才の時以来、天使ミカエルなどを通じて何度も神のお告げを聞いたとされている。それは、王太子シャルルをランスで戴冠させなさいと言うことであったと言う。

17才の時、ジャンヌはロレーヌから500km以上も敵地を突破してシノン城に到着、大広間で王太子シャルルに謁見し、神のお告げを王太子に告げた。当時、王太子シャルルにとって緊急の問題はイギリス軍に包囲され陥落寸前のオルレアンを救うことであったが、連戦連敗中の王太子はまた負けるのではないかと二の足を踏んでいた。ジャンヌ・ダルクから神のお告げを聞かされたシャルルは新たに闘志を湧きおこしオルレアン救援を決意する。

前進基地であったブロワ城でジャンヌは大司教に祝福を与えられた旗印のもと、王太子から贈られた銀色の甲冑をまとって白馬にまたがり、兵を勢揃えして初陣に出発した。
ジャンヌは旗を掲げて先頭をきって突撃して兵の士気を鼓舞したので兵は勇気百倍、勇猛に戦ったので10日後には7ヶ月以上にわたって包囲していたイギリス軍を背走させ、オルレアンを解放したと言われている。

その後、シャルル王太子は歴代のフランス王が戴冠式を挙げていたランスに向かい、途中の都市を次々に従わせながらランスに到着、戴冠式を挙げ、フランス国王シャルル7世となったのである。
ジャンヌの神のお告げはこのように成就したのであるが、彼女自身はと言えばシャルル7世に疎まれるようになったうえ、コンペエーニュの戦いで捕えられ、火あぶりの刑に処されてしまう。
‘オルレアンの乙女’は未だ花も恥らう19才であった。
(紅山雪夫の「フランスものしり紀行」がこの辺りの歴史について詳しい)

さて、ブロワ駅の駅員に教えられた通り、駅前から伸びる一本道を4~5分歩いていると前方の木々の間に建物らしきものが見えてきて、さらに5分ほど歩くと道は右にカーブする下り坂となっており、左手に小さなヴィクトル・ユーゴ公園があり、右手には3層の豪壮な城郭が聳えている。(案内書によるとこの城郭はフランソワ1世棟の裏手にあたり、ロッジアのファサードと呼ばれるものだそうだ。一見、窓が並んでいるように見えるが吹き抜けのテラスになっていたらしい)

城郭に沿って坂道を上って行くとブロワ城の前庭が広がっており、その広場を横切ってロワール川の方向に進んでみると突き当たりは高台のテラスになっている。アンボワーズ城と同じようにブロワ城もロワール川に架かる橋をのぞむ高台の突端に城塞が築かれたことがよく分かる。

広場の中ほどに戻って周りを見渡してみると、ジャンヌ・ダルクが兵を勢揃えしたとされる広場はさほど広くは感じられない、騎馬を考えると3~4百人がせいぜいと思われる。雑兵は城下で待機していたと言うことなのだろうか?
いずれにしても17才の少女が銀色甲冑を纏い白馬に跨って、敬虔な祈りを神に捧げたであろう、その場所に現在立っているのだと思うとなんとなく甘酢っぱい思いになる。

ルイ12世翼棟

後にルイ12世となるルイはこのブロワ城で育ったのだが、思わぬところから彼に王権が転がり込んできた。それは国王シャルル8世がアンボワーズ城で門のかまちに頭をぶっつけて死んでしまい、しかも世継ぎを残さなかったためである。彼は王冠とともに寡婦となったシャルル8世の妃アンヌ・ド・ブルターニュを王妃として迎えたのだそうだ。長年の確執の末にフランス王家がやっと手中にしたブルターニュを手放すわけにはいかなかったのだろう。

王は即位するとすぐにアンボワーズ城の工事を中止させ、建築家や石工、庭師などを呼び寄せて王妃とともにブロワ城の改造に着手、テラス式の壮大な庭園(現在のヴィクトル・ユーゴ公園の道路を挟んだ高台にあったらしい)と住み心地のよい居館を1つ造ったとされている。 その居館が現在ではブロワ城のファサードのような役をしているルイ12世棟である。

少し近づいてみると、煉瓦と石を混用した壁は赤と白のコントラストが素朴で窓の装飾もシンプルな感じである。騎馬用の門(ポルタイユ)や人間様の門は棟の右側にずれているようであるが、シンメトリのなどあまり気にしない時代であったらしい。ポルタイユの上の壁の窪みにはルイ12世の騎馬像が置かれているが、これは後の時代の作のようだ。その右下には針鼠が刻まれているが、これはルイ12世の紋章である。
ルイ12世棟の右手の尖った切妻屋根が13世紀、ブロワ伯時代の名残を残す建物と思われる。

中庭を囲む翼棟

チケット売り場で貰った日本語のパンフレットには、ブロワ城は1つの中庭を囲む4つの建築物で構成されており、それぞれ4つの時代の異なる建築様式で建てられていてフランスの中世から近世にいたるフランス建築史を一望することが出来ると説明されている。中世の封建時代からルイ13世の近世までの「城の建設史の博物館」だと言う向きもあるようだ。

ゴシック様式

中庭に入り、振り返ってみるとルイ12世棟の左の隅に黒い屋根の1部が見える。歴代のブロワ伯が法廷として使っていた建物で、封建時代の城塞の名残が残っているゴシック様式の建物だとされている。しかし、ルイ12世棟がくっ付いて建てられて城塞の名残はほとんど消されている。

フランボアイアン様式

ルイ12世翼棟である。ゴシックからルネッサンスへの移行期の建築様式だそうで、1503年に建てられたルイ12世翼棟は、パンフレットによればゴシックのフランボアイアン様式がその特徴らしい。イタリア起源の装飾にはスカンジナビアの影響が入り混じっているとのことだが、西洋建築史の門外漢には何処にノルマンの影響があるのかさっぱり分からない、この辺りが一人旅でガイドが付かないつらいところである。

中庭側から見るルイ12世翼棟は両端に塔のような螺旋階段が配され、列柱回廊がそれを結んでいる。その列柱にはイタリア風のアラベスク模様の装飾が施されているなど、装飾は豊かである。

また、シュノンソウ城館のように廊下が設けられ、各部屋に直接に行くことが出来るなど居住性に富んでいる。
ルイ12世翼棟の右端に繋がっているのがシャルル・ドルレアン回廊、その後ろにサン・カレー礼拝堂が建っている。どちらもルイ12世の時代のものである。

ルネッサンス様式

中庭の右手、ゴシックの建物に繋がっているのがフランソワ1世翼棟である。ルイ12世翼棟からわずか15年後の建築だが、ルイ12世棟と比べるとずいぶん洗練された感じである。

フランス・ルネッサンスの先駆けをなすと言われているが、とりわけ建物の外に開かれた塔のような螺旋階段は豪華な装飾が施されている。この階段から宮廷の貴婦人たちが中庭で行われる催しものを見物したのだそうだ。

クラシック様式

中庭の正面は、ルイ13世の弟、ガストン・オルレアン公がフランソワ・マンサールに命じて1635年から建設を始めたクラシック様式のガストン・オルレアン棟である。ルイ14世の誕生によりオルレアン公への資金の流れが止まったため建設は3年ほどで中断、建物は未完成である。