ホテルを9時前に出て、6分ほどでモンパルナスの駅前に着く。ホテルのフロントでモンパルナスからルーヴルへはバスが便利で、路線番号95のモンマルトル行きに乗ればいいと教えて貰っている。
95番の乗り場に行くとすでにバスがとまっているので慌てて飛び乗ると、バスはすぐに走り出した。が、国鉄の駅沿いを走りだしたので、どうやら反対方向に向かっているようだ。近頃はこうした間違いをしょっちゅう起こしている、加齢で痴ほうが進んでいることなので仕方がないことかも。
次のバス停で降り、今度はモンマルトル行きを確認して乗り換える。切符の方は刻印しているが、買い替えは勘弁してもらう。

さて、ルーヴル、
ルーヴルの古代オリエント美術部門はリシュリュ翼にある。その入口を通って、エスカレータで1階に上がったところが展示室1である。展示室1には新石器時代からシュメール初期王朝時代の出土品が展示されており、その最初にお目にかかるのが禿げ鷹の碑である。

禿げ鷹の碑(BC2450年頃、テロー(旧ギルス)出土、高さ1.8m)

禿げ鷹の碑は部屋の壁をくり抜いて背中合わせに、1面が室内から、2面が室外から見られるようになっている。
破片が4~5枚張り付けられた何でもないパネルのようだが、この禿げ鷹の碑は現在知られている最古の歴史編さん記録なんだそうだ。これはラガシュの王エアンナトゥムが、隣接する都市ウンマとの戦いに勝利を収めたことを記念した碑で、1面、2面ともに浮彫が施され、楔形文字で銘文が刻み付けられている。一般的に1面が歴史的な面、2面が神話的な面と言われている。
この作品が一般に’禿鷹の碑’と呼ばれるのは、1面の1番上段の破片に兵士の死体を啄ばんでいる禿げ鷹の姿が見られるからだそうだ。

1面
2面

1面上段の比較的大きな破片は、エアンナトゥム王を先頭にしてラガシュの軍隊が隊列を組んで進軍する様が刻まれている。ラガシュの兵士たちが敵兵の死骸を乗り越えて進んでいるのでこれは勝ち戦である。
次の段には戦車に乗って進むエアンナトゥムと、それに続く歩兵たちが描かれている。王は右手に持っているものはよく分からないが左手に持っているのは長い槍である。
歩兵たちは上段とは異なり盾も持たず上半身裸のままで、槍を構える代わりに肩にかついでいるので、戦いの勝敗はほぼ決した様子である。

2面は神々の戦いの場面で、中央に立つ大きな人物が籠の中に捕らえた敵兵たちを梶棒で打っているところが描かれており、この大きな人物はラガシュの守護神ニンギルスである。捕虜の入った籠の上部には二頭のライオンの背に爪をかけた獅子頭の鷲が翼を広げているが、これはニンギルス神のシンボルである。

禿げ鷹の碑に関連する展示品も併せて見ておくことにする、次のエンテメナ王の円錐碑である。

エンテメナ王の円錐碑文(BC2400年頃、テロー(旧ギルス)出土、高さ27cm)

エンテメナ王はエアンナトゥム王の甥で、エアンナトゥムの2代後のラガシュ王。
ラガシュと隣国のウンマの間で領土の境界のことで争いが絶えなかった。このエンテメナ王の円錐碑文はラガシュとウンマの国境争いを回顧したもので、2国間の境界はキシュ王メシリムの調停によって定められ境界石が立てられていたが、ウンマがこの碑の位置を動かしてラガシュの領土に侵入したのが、禿げ鷹の碑の戦いの原因だとしている。この国境争いはエンテメナ王の時代も、さらにその後も続いていた。
なお、この国境争いとなったところは‘グ・エディン’という土地でエデンの園のモデルだとも言われている。

次はちょっと気になる新石器時代の美人3体。ヌードでいずれも立派なオッパイでいらっしゃる。

女性小像(BC6000年頃、テル・エス=サワン出土 高さ5.4cm)

メソポタミア最古の女性像、高さは5.4cmと小さいが、サマッラ期からハッスナー期に遡る時期のもと言われている。アラバスターを削って作られており、灌漑農耕の始まったころの個人の住居の下の子供の墓から見つかったもの。子供に寄り添う母親をイメージさせるが、単純化された裸体は豊穣と多産を願ってのことだろう。

ハラフの女人土偶(BC6000年頃、ハラフ期 メソポタミアまたは北シリア 高さ8.2cm 彩色テラコッタ)

粘土を捏ねて彩色され、フォルムが強調されており、ハラフ新石器時代の特徴を表わしていると言われている。胸の周りに腕を組んで分娩を想起させる姿をしていると言う解説があるが、素人目には分娩の様子には思えない。ハラフ期には小さな村落が多様化して牧畜を伴う穀物農耕になっていたので、立派なオッパイを持つこの女性坐像も豊穣多産を願って作られたにちがいない。

ウバイドの女性土偶(BC5000年紀、テロー(旧ギルス)出土、高さ6.2cm 彩色テラコッタ)

メソポタミア南部に人々が定住し始めたのがBC5000年頃で、北部のサマッラ文化やハラフ文化がメソポタミアの南部まで伝わってきて、ウバイド文化期(BC5000~3500)に引き継がれていった。
ウバイド中期には灌漑農耕が発達し収量が飛躍的に増えたと言われている。
頭部が欠けているこの土偶は粘土を捏ねて焼成し、彩色で絵付けされている。ここでも農耕社会の豊穣と多産の願いから女性土偶が作られていたと考えられる。

王―祭司像(BC3300年頃、ウルク期 高さ30.5cm、石灰岩)

一見、こけし人形のようなこの小像は、メソポタミア南部における権力の萌芽を表わすものである。農耕と畜産が進み、町が豊かになってくると徐々に住民の階層化が起こってきて、最高権力者が町の中心に神殿を建て祭司王として君臨することになる。
輪のように顔を囲んでいる髭、ヘヤーバンドのような被り物は権威を表しているのだろうか。

ウル・ナンシェエ王の奉納板(BC3000年紀中頃、テロ(ラガシュ)出土 高さ40cm 石灰岩)

ラガシュの王ウル・ナンシェエがニンギルス神(ラガシュの主神)の神殿造営を記念して奉納した石製浮彫板である。真ん中の穴は神殿の鉤に突き刺してかかげるための穴ではないかと言われている。上段にはウル・ナンシェ王が神殿建築のための煉瓦が盛られた籠を自ら運ぶ姿と、高官と子供たちが従っている様子が描かれている。下段は神殿完成後に杯を持って祝宴に臨むとろである。カウナケスというスカートなどに楔形文字で銘文が書かれているので詳しく内容が分かっているらしい。
この写真は不鮮明なのでギャラリーの拡大写真をご覧ください。

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