シュノンソー城はロワール川の支流、シェール川を跨ぐように建ち、その姿は水に浮かぶ船のように美しく、また、「6人の女の城」とよばれるように代々の主が女性だったこと、そこで繰り広げられた愛憎劇などから日本人の観光客、ことに女性陣に人気がある。

6時45分、TGVは定刻に出発、隣は30才前後くらいのビジネスウーマン風のマダム?である。朝食を食べるが、よいかと聞いたら、‘シュアー’という返事である。ル・モンドでも開くのかと思ったらファッション雑誌をいくつもとりだしたのでちょっと意外でもあったが、他方いずこも同じなんだと安心する。

ロワールの谷の観光の基点はトゥールであるが、ボルドー方面に行く多くのTGVはトゥール駅に行かないのでサン・ピエール・ド・コール駅で乗り換えることになる。ヨーロッパのちょっと大きな駅はターミナル方式で折り返しなるので、スピードの観点から通過駅方式のサン・ピエール・ド・コール駅に停車するようだ。(丁度、新幹線が停まる新大阪駅と在来線の大阪駅(ターミナル方式ではないが)を想像して貰えばよい)
サン・ピエール・ド・コール駅とトゥール駅間は在来線かシャトルで5分ほどである。ロワールのお城を見に行くと話していたので、隣の女性が3分ほど手前で次の停車駅がサン・ピエール・ド・コール駅だと教え貰う、感謝。

ACCO―DISPO社のセクル(Cecle)という名前のレスっぽい兄ちゃんが今日のドライバー兼ガイドで、€50を払うと驚いたことにメモのような鉛筆書きの領収書をくれる。1日コースは、€50であることはホームページやメールで確認しているので料金に問題はないが、鉛筆書きのメモでは脱税のし放題ではないかと疑いたくなる。

で、9人乗りのミニバスにシカゴの老夫婦と3人で出発。先に日本語のカセットを流した後、お兄ちゃんが英語で説明すると言うことで、早速、日本語の解説が始まった。途中、聞き取り難いところがあちこちであったが、大まかなところは次のようである。

「シュノンソーの見事な城館はシェール川を跨ぐ形で建っており、周囲の自然環境は湖、草木の緑、庭園などが調和を保って溶け合っています。絵のように美しいこの立地条件に城館の優雅な建物と装飾とが彩りよく映えています。 城館内の家具調度もとてもすばらしいものです。

シュノンソーの城館は1513年から1521年にかけてトマ・ボイエによって造営されました。彼はシャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の財務官を勤めた人物です。ボイエがシュノンソーを手に入れた経緯や城館の所有者の頻繁な交替などは筋が目まぐるしく回転する1篇の小説を思わせます。正妻、妾、王妃といった数々の女性が400年に渡って、幸せ不幸せを取り混ぜた舞台でありました。
シュノンソーの土地は当初マルク家のものでこの土地に城主館とありふれた水車が建っていましたが、1512年に領地は差し押さえられ競売に付されました。
落札したボイエはドンジョン(主塔)を除きすべて取り壊し、シェール川に設けられていた水車台の上に城館を建て始めました。しかし彼は仕事に忙殺され、また、しばしばミラノに従軍したりしていたので新城館の建設工事を指揮することは出来ませんでした。そこで、トゥール地方の強力な財政家の出である妻のカトリーヌがもっぱら城館建設の指揮にあたりました。城館の場所の選定や簡潔な設計案に女性らしさの影響と家庭の主婦の配慮が感じられます。便利さが快適さと結ばれたのです・・・・・・」

その1つが、ホール(廊下)を設けたことで、これにより廊下から直接各部屋に入ることが出来るようになったことである。ヴェルサユー宮殿でもそうだが、中世の城では一番奥にある王の居室に行くには部屋から部屋を通り抜けて行かなければならなかった。これは防御にはよいが、途中の部屋は丸見えになるので日常生活では不便極まりなかった筈である。
もう1つはイタリア式の直線階段を作ったことである、それまでは城塞の築城の伝統に従って、敵の急襲に備えるために階段はラセン状に作るのが一般的であった。城塞が城館になってからもラセン階段が作られていたが、カトリーヌは民間の出らしく形式にとらわれず便利さ優先したようだ。

「1547年王位に即位したアンリ2世はシュノンソーを愛妾のディアーヌ・ド・ポワティエに与えました。しかし、アンリ2世が1559年に騎馬試合で事故死すると、それまでじっと耐えていた王妃カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となり、ディアーヌが強い愛着を懐いていること知っていたシュノンソーをショウモン城と交換に取り上げることで1番痛いところを突いたのでした。
カトリーヌは美術工芸に対する趣味をもっていたばかりでなく、神も殺しました・・・・・」

美術工芸の趣味と言うのは、美術品の蒐集や庭園をつくらせたり、シェール川に架かる橋の上に2層の建物を加えたりしたことなどを指していると思われるが、神も殺しましたとは聞き違いでなければ穏やかでない。シュノンソーで相次いで開かれ華やかな饗宴や乱痴気騒ぎ、カトリーヌが摂政となってからの権謀術数の数々を言っているのだろうか。

「カトリーヌの死後、シュノンソーはアンリ3世の王妃で義理の娘にあたるルーイズ・ド・ロレーヌに贈られました。アンリ3世が暗殺された後、ルーイーズは城館に引きこもり11年に亙り祈りと読書と刺繍をして過ごしましたが、王室の慣例に従い白の喪服を着用し死を迎えるときまでそれを守り通しました。そこから白衣の王妃と呼ばれるようになりました・・・・・・」

「1733年、シュノンソーは徴税請負人のデュパンが所有者となり、デュパン夫人はサロンを開きました。デュパン夫人は美術、文芸、演劇、自然科学の愛好者で、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなど当時の一流の文化人たちを招きました。ルソーが‘エミール’を書いたのもここに滞在中のことでした。
また、デュパン夫人は静かで慈悲深い晩年を過ごし、村人たちに尊敬されていたので、あの革命の時にもシュノンソーは略奪の被害から免れました・・・・・・

1864年、シュノンソーを買い取ったプルーズ夫人は城館の修復を生涯の仕事にしました。シュノンソーをカトリーヌ・ド・メディシスの時代のものに戻そうとしたのです・・・・
現在は、食品メーカームニエ家という民間企業の経営するお城となっています」

なるほど、正妻や妾、王妃といった多くの女性が長年にわたって幸せ不幸せを繰り広げた回り舞台のようである。

40分ほど走ってシュノンソーに到着。入場料は€10のところ、お兄ちゃんの顔で団体扱い(20名以上?)で€8である。で、ガイドの仕事はここまで、集合時間と場所を教えられて、後はご自由にというわけで、見物時間は1時間半ほどある。

まだ葉が落ちたままでちょっと殺風景なプラタナスの並木道を進んでいると、正面にマルクの塔とシュノンソー城館、左に大きな庭園、右には小ぶりな庭園が見えてくる。城館のファサードは修理中で網がかかっていてちょっと興ざめである。右手のカトリーナ・ド・メディシスの庭園の写真を撮った後、城館に向かう。

護衛兵の間

正面入口を入り流れに従って左手の部屋にはいると、インフォメーションの部屋となっている。係員が観光客の荷物を預かったり、質問に答えたりしているが、この部屋はかっては武装した宮廷の護衛が控えていたところである。
暖炉の上の紋章はこの館の建造者のトマ・ボイエのものだと言う、また、壁にかかっているタペストリーには城での生活や狩の場面が描かれているそうだ。

ディアーヌ・ド・ポワティエの部屋

護衛兵の間から突き出るように作られた小さな礼拝堂をちらっと見て、次のディアーヌ・ド・ポワティエの部屋に入る。
ディアーヌ・ド・ポワティエはアンリ2世より20才も年上であったが、肌は抜けるように白く瑞々しく、50才になってもその美貌は衰えることはなかったと言われている。また、ただ美しいだけではなくかなりの政治力も行使したらしい。

天蓋付きの薄青色のベッド、その後ろには旧約聖書の物語が描かれたフランドル製の2枚のタペストリーが掛けられている。驚いたことに、窓側の壁には一見ムリリョの絵と分かる「聖母子」が飾られている。国外に流出しているのがそんなに多くないと言われるスペインの絵画がディアーヌ・ド・ポワティエの部屋にあると言うことは、それだけシュノンソーは贅沢、かつ、大切なものだったものと思われる。
この部屋で気になるものがもう1つ、豪華な暖炉(有名な彫刻家の作らしい)の上に飾られているカトリーヌ・メディシスの肖像画である。
アンリ2世の急死後、カトリーヌ・メディシスはディアーヌから、ショーモン城と交換という条件ではあるが、シュノンソー城を取り上げたと言われている。憎きポワティエの匂いをシュノンソーから消し去ろうとしたはずなので、この部屋にカトリーヌ・メディシスの肖像画が掲げられているのも尤もなことかも知れない。

緑の書斎

礼拝堂と同じようにカトリーヌ・メディシスの部屋から突き出るように作られているのが緑の書斎、小ぶりな部屋であるが、アンリ2世の死後、摂政となった彼女はこの部屋からフランスを統治したと言われている。タペストリーはアメリカ大陸発見をテーマにしたものだそうで、ペルーの雉、パイナップル、蘭やザクロなどヨーロッパに知られていなかったものが、緑が青に変色したような色合いに織られたものらしい。
壁の絵画はティントレット、ヴェロネーゼ、ヴァンダイクなど。
この緑の書斎の奥に図書室が付属しており、カトリーヌ・メディシスの仕事机が置いてあったと言う。