展示室1は小さい部屋が3つつながっていたが、展示室2は大きなワン・フロアーである。
この部屋に入って最初に目に付くのが右手奥に展示されているナラム・シン王の戦勝碑であるが、大きい。

ナラム・シン王の戦勝碑(BC2220頃、スーサ(イラン)出土、元々はシッパルにあった、高さ2mレッド・ライムストーン))

アッカド王朝4代目の王ナラム・シン(王位BC2254~2218)が、山岳地の蛮族と戦って勝利を収めたことを記念して作られたものである。
大きな砂岩の一枚岩に浮彫されていて、左側の山を登って進軍して行くのがアッカド軍の兵士たちで、その先頭のひときわ大きな人物がナラム・シン王である。
王の兜には神性を示す角飾りが付いており、右手に槍、左手に弓矢を持ち力強く歩を進め、その足元は敵兵を踏みつけている。
右側の敵兵は槍を受けて倒れる者、山から真っ逆さまに落下する者など様々である。
山の頂上には太陽が幾つか見えるのでナラム・シン王が太陽にその戦勝を捧げているところだと言う。スーサ出土とされているのは、この碑はBC12世紀にバビロニアに侵入したエラム王シュトゥルク・ナフンテがスーサに持ち去り、スーサの発掘で発見されたからである。

オベリスク(BC2270年頃、スーサ出土、元々はアッカド時代のもの、高さ1.4m、閃緑岩)

このオベリスクはアッカド王朝3代目の王マニシュトウシュ(王位BC2269~2255)が建てたもので、楔形文字の長い碑文が刻まれており、法の歴史においても重要な文書だと言われている。素材は硬い閃緑岩でオマーンから遠路はるばる輸入したもので、アッカドの王たちは閃緑岩を好んだらしい。
碑文は4面にわたって丹精な楔形文字が刻まれており、マニシュトウシュ王がキシュ領の広大な土地を購入し、4つの敷地に仕上げて部下の高官たちに分け与えたことが述べられているらしい。いずこの王も部下の忠誠心を得るために苦労していたようだ。

展示室2の奥のほうには‘グデア像’が多数展示されている。
グデアの時代は、山岳民族のグティによってアッカド王朝が崩壊させられた後、ラガシュ(ウンマによって壊滅させられたものの、細々と続いていた)が復活、繁栄を取り戻した時代である。グデアは神殿の建立を熱心に進め、たくさんの奉納物を捧げたと言われている。
グデア像は、神に祈りを捧げる姿を表した石像で、立像、または椅子に腰掛けた座像などがあるが、いずれの場合も、両手を胸の前で組み合わせた姿勢をとっている。神殿で王に代って守護神に祈るための像であり、王の肖像を彫刻したものではない。
そのため、像は王の風貌を表現するものではなく、祈る者としての理想の形を表現したものと言われている。

グデア座像(BC2120年、テロー(旧ギルス)出土、高さ46cm 閃緑岩)

グデア像として、よく見かけるのがこの像である。ターバンのような帽子を被り、丸い顔、柔和なまなざしをしており、これが当時の理想像だったようだ。
この像はグデア王の守護神であるニンギシュジダ神の神殿に置かれていたのだが、シュメールで個人神を通じて、上位の神に願いをとりなして貰うこととされていた。

建築家グデア像 (BC2100頃、テロー(旧ギルス)出土、高さ 93cm 閃緑岩)

この像はグデアが膝の上に建物のプランを載せていることから、‘建築家グデア像’と呼ばれている。ニンギルス神殿の平面設計図で、グデアは夢の中で神から神殿のプランを授かり、造営作業に取り組んだと言われている。

でかい(colossal)グデア像(BC2100年頃、テロー(旧ギルス)出土、閃緑岩 高さ157cm)

ルーヴルのグデア像には、小さなグデア、建築家グデア、肩幅の広いグデアなどニックネームが付けられている。このグデアは坐像にもかかわらず、高さが1m57cmもあるので、でどかいグデアと呼ばれている。

グデア立像(BC2120年頃、テロー(旧ギルス)出土、閃緑岩 高さ70.5cm)

グデア像は頭部が欠けたりしているが、この像はめずらしく完全な像である。立像にしては高さが70.5cmと比較的小さい。ガラスケースに入れられている。
ルーヴルのデータベースで調べてみると、この像は無名像(Anepigraphic statue)となっているが、顔の表情は豊かであり、胸の前で組み合わされた指、腕から垂れている布の柔らかな曲線など表現が豊かである。ガラスケースに入れられている。

肩掛けをした婦人の胸像(BC2150年頃、テロー(ラガシュ)出土、高さ 17cm 凍石)

新シュメール時代の女性像で最も美しいものの1つとされていて、‘肩掛けをした女’(a woman with scarf)のニックネームが付けられている。グデア夫人の肖像などとも言われているが、確かな根拠があるわけではないらしい。頭にヘアバンド状の飾りを付け、その下から左右に均等に分けられた、波うつ髪の毛が見えている。眉が太く左右つながり、目は大きく、鼻筋が通っていて、なかなかの美人である。首輪を飾り、衣服と肩掛けには縁飾りの付いたものを着用していて、身分の高い婦人の持つ気品がつたわってくる。
胸の前に両手を組み合わせているので、神に祈りを捧げているところだろうか。

(ルーヴル美術館の公式サイトで、この像は‘ポロスを被った婦人像’として解説されていた。ポロスは丈の高い帽子のことで、マリの風俗である。そこで、日本のオリエント学会に資料を添付してルーヴル美術館の解説は間違っているのではと照会した。オリエント学会にはたな晒しにされたので直接ルーヴル美術館に手紙を書いたところ、ルーヴル美術館はサイトの訂正をした。ところが、解説を修正するのではなく、写真の差し替えで済ませた。そのため、現在では写真と解説は一致しているが、‘肩掛けをした婦人の胸像’はルーヴル美術館の公式サイトでは見られなくなっている。‘ポロスを被った婦人像’は展示室1に展示されており高さ14cmほどの小品であり、重要性からすると‘肩掛けをした婦人の胸像’がはるかに高いと思われるのだが・・・・)
(ルーヴル公式サイトの訂正前のものは→ a woman with scarf

アッカド時代の丸彫りの戦勝碑が3体、素材は閃緑岩でピラミッドのような形に仕上げられている。それぞれ違う戦いの場面が描かれているが、これらは王の勝利を祝うもので神殿のなかに据えられていた。サルゴンの宮殿の工房で作られたもの。

アッカド王の戦勝碑の先端部分(BC2300年頃、スーサ出土、高さ 54cm 閃緑岩)

敵の捕虜が捕らえられ、狩猟用の網に閉じ込められている場面である。網のなかをよくみると猿らしきものがいる。捕虜は猿とおなじように扱われたのであろうか。

戦勝碑の一部分(BC2340~2279年頃、スーサ出土、高さ 46cm 閃緑岩)

この場面は捕えられた敵の捕虜が連行されているところである。捕虜は裸にされ、両手は後ろでに縛られている。アッカドの兵士は先の尖った武器を右手に持ち、左手は捕虜の後頭部をせっついて速く歩かせようとしているのが見て取れる。

サルゴン王の戦勝碑(BC2300年頃、スーサ出土、高さ、91cm 閃緑岩)

サルゴン王の兵士がこん棒のような武器をかついで行進している場面のようである。

人面牡牛像(BC3000年紀後期、新シュメール期、購入、高さ12.1cm 凍石)

この像と並んでもう1体、人面牡牛像が展示されているが、どこから出土したのかはっきりしていない。テロ(旧ラガシュ)から発見されたものが、良く似ていることもあってラガシュに由来するものではないかと言われている。角飾りの付いた丈の高い帽子をかぶり、長くひげを垂らした人面と牡牛の胴体をしているこの像は、アッシリアの王宮入り口の有翼人面牡牛像を思わせるものである。
もう1体の像と同じように背中に穴があることから、この人面牡牛像は何か支柱のようなものを支えるためのものと考えられている。

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